最近、迷宮入りしかけていた卒制にやっと出口の兆しが見えてきた。
それはまずオープンスタジオで提出したプランの破綻部分がはっきりしたことと、卒制における自分の提案の方向性がわかってきたからである。(全体の進捗状況としては依然として危険信号がともる) とにかく年内までに図面を完成させるというのが一つの目標。ただもう計画的には成り立ちそうもないプランなので、どこまでリアリティを追求するか、どこで折り合いをつけるかが問題。 メモ1 空間の再帰性について 同じ場所が繰り返されること ~オルドスの砂漠、パリのパサージュ、シャッター街(丸五市場)を通じて~ 去年のオープンスタジオで提出した作品「そこにあるもの」から今年のオープンスタジオに提出した「誰かがいる/誰もいない」を通じての共通項。その1つが「再帰性」。再帰性とは、”選択肢自体が選択の前提となる自己準拠”のこと。 例):AだったのでBになる、だったのでAになる・・・・ 『「絵を描く人の絵」を描く人の絵」を描く人の絵・・・・・ これらの文章は再帰性がある。また、こういった文章には終わりがなく、不毛に続いてしまうという性質がある。こういった性質を持った空間は、砂漠やシャッター街、パリのバサージュにも見られる。 演劇の世界にも同様な空間性をもつものとして”不条理演劇”というのがある。その代表的な作品としては、サミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」が挙げられる。 この作品は二幕劇からなる。木が1本しかない舞台で、2人の浮浪者がゴドーを待ち続けている。2人はゴドーが何者なのか知らないし、どうして待っているのかも劇中では明かされない。2人は待ちながらたわいもないゲームをしたり、滑稽で実りのない話しを交わし続ける。そこにもう2人別の人物が通りかかり、さらにとりとめのない会話と遊戯が続く。一日の終わりに少年がやってきて、ゴドーはもう来ないと告げる。2人はもう1日待とう、明日ゴドーが来なかったら首を吊ろう、という。同じことがまた翌日繰り返され、芝居はそこで終わる。 普通、劇というのは喜劇にしろ悲劇にしろ、始まりがあって終わり(結末)がある。しかし、ベケットの作品にはそういった始まりや終わりが存在しない。 このように、ストーリーは特に展開ぜず、そこで起こる会話自体(言語自体)が物語の本質部分に一切介在しない展開の仕方に、自己の存在意義を失いつつある現代人の姿とその孤独感が表現されているという。 この作品は自分の社会に対する見方と妙なリアリティを持って共振した部分がある。そこでは自分の見ている風景でさえ、主体的な見方から遊離して、一歩引いて見ているような感覚である。演劇や文学でいうメタフィクションと近いものかもしれない。それはその世界が虚構である、という事実を前提しとて社会や物語を鑑賞する姿勢である。 自分がこの卒制で目指している空間の性質は、そういったある種の浮遊感を持ったものであり、そこには強要される一切の物語性のないものである。しかし実際にはそのような建築物は成り立たないだろう。建物というのは生活の一連の流れとリンクして成り立つ。そのためにはある種の物語性(ストーリー)やプログラムが必要になる。この作品がただのゲームに終わらないためには、そこと上手く折り合いをつける必要がある。 どのように突破口を見出せばいいのやら。 とにかく方向性が定まっただけに期待:不安=0:10が期待:不安=1:9くらいにはなれた・・・。
by Totsu_lens
| 2010-12-23 17:00
| DIARY
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